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江戸からの伝統が息づく、歴史あるまち

ページID:318866530

更新日:2015年11月27日

「嘉永新鐫本所絵図」 尾張屋板 安政2年(1855)刊

 江戸文化発祥の街として発展をしてきたすみだは、名所・旧跡のほか歴史に刻まれた人物ゆかりの地などが点在しています。

すみだで生まれた偉人

葛飾北斎

 葛飾北斎は、今から約250年前に本所割下水で生まれたと言われています。
 北斎は、嘉永2年(1849年)に亡くなるまで、およそ70年近く作品を描き続けました。錦絵「冨嶽三十六景」や絵手本『北斎漫画』などの作品は海外に渡り、ゴッホなど19世紀のヨーロッパ印象派の芸術家に大きな影響を与えています。
 90歳という長い生涯のうち90回以上も引越をしたといわれますが、そのほとんどを墨田区内で過ごしています。達磨横町(現在の東駒形一丁目辺り)に住んでいた80歳の時に初めて火災に遭いますが、筆一本だけを握って逃げ出したといいます。
北斎は画号を何度も変えていて、春朗・宗理・為一・載斗・卍などがあります。葛飾北斎の「葛飾」は、出生地である「すみだ」を含む地域が、武蔵国葛飾郡であったことから名のったといわれます。また、生涯を作画にささげた北斎を象徴する、画狂人・画狂老人なども用いています。

勝海舟

 勝海舟は、文政6年(1823年)1月30日、当時本所亀沢町(現在の両国公園付近)の父小吉の実家である男谷家で生まれ、幼名を麟太郎といいました。
 やがて母子とともに入江町(現在の緑四丁目)にある主筋の岡野家の持ち家に移り、ここで少年時代を過ごしました。旗本とはいうものの微禄の家柄で生活は楽ではありませんでしたが、海舟は未来を信じ、良師を求めては文武両道に励みました。まだ男谷家に通い剣の手ほどきをうけている頃、犬に襲われ一命が危ぶまれたとき、父小吉が能勢妙見堂に水ごりをして回復を祈ったエピソードも伝わります。
 蘭学を修め、西洋の兵学、砲術、航海、測量法などを学び、安政7年(1860年)1月、咸臨丸艦長として邦人の手による初の太平洋横断の快挙をなしとげました。慶応4年(1868年)3月、高輪の薩摩藩邸において西郷隆盛と会見し、江戸城無血開城に成功し、江戸市民を戦禍から救いました。明治政府にも重用され、参謀兼海軍卿・元老院議官などになり伯爵となりました。

夏の風物詩 隅田川花火大会

 毎年夏に開催されている隅田川花火大会は、隅田川の夏の風物詩として多くの人々に親しまれています。
 明暦の大火(1657年)以後、幕府は旧暦5月28日から3か月間、隅田川に納涼舟を繰り出すことを許可しました。これを川開きと言いました。
 やがて徳川八代将軍吉宗の時代に疫病や飢饉が相次いで発生しました。吉宗はさっそく享保18年(1734年)の川開きの初日に当たる5月28日、災厄除去と慰霊祭を行いましたが、この時初めて花火の打ち上げも公認されました。
 以後、両国の川開きと花火は、若干の断絶期を挟みながらも、昭和36年(1961年)まで続けられた江戸・東京を代表する年中行事と言えます。
 また、昭和53年(1978年)には、隅田川花火大会と名前を変えて復活し、今日に至っています。

史跡

忠臣蔵の舞台 吉良邸跡(本所松坂町公園)

 元禄15年(1702年)の旧暦12月14日(正確には翌日未明)、大石内蔵助良雄をはじめとする赤穂藩の旧藩士47人(赤穂四十七士)が討入りした吉良上野介義央の上屋敷は、現在、本所松坂町公園となっています。その面積は29.5坪(約98平方メートル)で、当時の86分の1です。
 この公園は、昭和9年に地元両国三丁目町会有志が発起人となって邸内の「吉良の首洗いの井戸」を中心に土地を購入して同年3月の東京市に寄付したので、昭和25年9月墨田区に移管されました。
 園内には、吉良上野介追慕碑、吉良上野介坐像、吉良家家臣二十士碑、首洗い井戸などがあり、壁面に義士関係の記録や絵画の銅版が埋め込まれています。また、周囲は「仮名手本忠臣蔵」に描かれていた「なまこ塀」となっています。
 毎年12月14日、地元の人々によって「義士祭」が行われ、12月の第2、または第3土曜日・日曜日には、「吉良祭」が催されます。また、地元の問屋が出店する「元禄市」も開かれ、たいへんな賑わいを見せています。

相撲のまち 両国

 大相撲の常設場所として、明治42年(1902年)、回向院の隣に旧国技館が開設されました。たび重なる焼失と、軍部や進駐軍による接収などのため、昭和25年(1950年)以降、大相撲は蔵前国技館に興行の拠点を移しています。
 新たな国技館として両国に帰ってきたのは、昭和59年(1984年)11月。新国技館での記念すべき最初の興行は、翌60年(1985年)の初場所でした。
 両国周辺には、多くの大相撲部屋が置かれ、ちゃんこ料理店、相撲グッズ店が看板を掲げています。

江戸の大相撲

 富岡八幡宮境内など場所を変えて行われてきた大相撲ですが、やがて江戸随一の盛り場となった両国の回向院境内で興行されることが増えていきます。そして天保4年(1833年)からは春秋の年2回、小屋がけによる常設場所「回向院場所」となります。このときから大相撲は、両国の代名詞となっていきます。

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