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王貞治の軌跡 僕らが野球少年だった頃

更新日:2006年2月1日

平成13年2月24日(土曜日)から平成13年5月6日(日曜日)まで
 現在、福岡ソフトバンクホークス監督の王貞治氏は、巨人軍時代には、独自の打撃フォームである一本足打法で、2回の三冠王、13年連続ホームラン王、通算ホームラン868号などの大記録を樹立し、初めての国民栄誉賞を受賞した不世出の大打者です。
 王貞治氏は墨田区に生まれ、戦後の復興期に少年時代をむかえ、ようやく庶民に娯楽が広まり始めたころ、野球を始めました。
 当時、庶民の娯楽の中心は、映画や相撲、そして野球でした。プロ野球界でも出征していた選手が復帰し、1リーグ制から2リーグ制へ、また初めてのナイターもおこなわれました。全国各地で地域や学校・会社などでチームを作り、子供から大人まで、多くのひとたちが野球に熱中したものでした。
 そのような中で、高校時代には全国優勝を遂げ、またプロ野球でも活躍した王選手は、戦災で多大な被害を受けた墨田区にとって、希望の星であったといえます。
 今、王貞治氏の活躍を振り返る展示を行いました。
 また、関連展示として、「懐かしのすみだ写真展−僕らが野球少年だった頃の風景−」および「未来の王さんをめざす「墨田区少年野球チーム」を紹介」を「資料館ボランティアの会」の皆さんのご協力により、5階(研修室)で開催しました。
昔懐かしい昭和30年から40年代のすみだの風景を写真として多数展示し、また後のプロ野球選手(かもしれない)墨田区の少年たちをチームごとに紹介しました。

ここでは、墨田区で育った頃の王貞治さんを紹介します。

五十番物語

 昭和15年(1940年)5月10日、東京府向島区吾嬬町西(現墨田区八広四丁目)の中華料理店「五十番」に双子が生まれました。父は王仕福・母は登美。双子の赤ちゃんの姉は広子、弟は貞治と名付けられました。貞治の名は、登美が入院中に読んだ本、「出世物語」の主人公の名前からとりました。貞治は半ば仮死状態で生まれ、しばらくは病弱でしたが、広子が1歳3カ月で病気のために亡くなると、その代わりに貞治はみるみる元気になっていきました。
 仕福・登美は昭和3年(1928年)、吾嬬町西八丁目にあった中華料理店「五十番」(現在の墨田区立第五吾嬬小学校の東側)を屋号ごと居抜きで買い取り、そこで初めて店を開きました。そして昭和13年(1938年)には、近くの吾嬬町西六丁目の表通り(現在の八広はなみずき通り)に面した20坪の土地に二階建の立派な店を建て移転し、貞治はここで誕生したのです。
 昭和20年(1945年)3月10日の空襲で焼けてしまいましたが、11月にはお店を再開し、翌年の暮には業平橋二丁目(現業平二丁目)へ移りました。これが通称「押上の五十番」です。
 王一家が移転したあと、「吾嬬町の五十番」は、昭和21年(1946年)7月に復員してきた登美の弟川口二郎・志津子夫妻が引き継ぎました。仕福は押上へ移転する時、「この店こそ、私達にとって最初の店だと思っている。だからここが第一、押上の店は第二・五十番にしましょう」と言って、仕福は押上の店の看板にわざわざ第二といれました。
 昭和37年(1962年)、仕福・登美は新宿へ転居し、そこでも営業を続けていましたが、長年働き続けた二人は昭和40年(1965年)ついに店を閉めました。一方「吾嬬町の五十番」は、昭和23年(1948年)6月、第五吾妻小学校の北側で、京成押上線の荒川駅前に移転し、昭和44年(1969年)には中華から洋食へとリニューアルしました。
(補足)本文中に記載の王貞治氏の誕生日について。一般には5月20日とされていますが、これは出生届を出した日で生誕日は10日です。本文のとおり貞治氏は双子の弟として生まれましたが、極度に病弱だったため、すぐに出生届を出さなかったようです。展示では実際に生まれた日といたしました。

甲子園優勝からプロ野球界へ

 「野球がうまい」と近所で評判だった貞治は、高校野球の名門早稲田実業へ進学しました。昭和31年(1956年)のことです。新入生だけでも80人近くいましたが、入学から2週間でレギュラーとなり、5番でレフトを守り、控えのピッチャーでもありました。5月3日の関東高校野球春季大会都予選決勝では、選抜の代表校日大三高に4対0でピッチャーとして完封勝ちをおさめました。そして、夏の東京都予選で優勝し、甲子園への切符を手にしましたが、2回戦で県立岐阜商業に敗退しました。翌年春の甲子園には、エースで四番打者として出場し、決勝で高知商業と対戦して5対3で勝ち、早実に初優勝をもたらしました。昭和32年(1957年)の夏にも甲子園に出場し、1回戦の寝屋川高戦で貞治は、ノーヒットノーランを達成します。この時は、2回戦で敗退しました。また、昭和33年(1958年)春の甲子園では、3回戦で優勝した済々黌(せいせいこう)高に敗退しますが、貞治は30年ぶりに2試合連続本塁打を放つなどの活躍をしています。早実時代の貞治は、春・夏あわせて4回も甲子園に出場し、その活躍は当然プロ野球のスカウトの目にとまります。
 紆余曲折を経て、昭和33年(1958年)8月31日、親族会議で巨人軍入団を決定し、自宅で巨人・宇野代表を交えて発表をおこないました。10月4日の東京会館での正式入団発表には、親族一同が出席するという珍しい発表になりました。
 巨人軍入団以後の3年間は、成績もふるいませんでしたが、昭和37年(1962年)に元毎日オリオンズの荒川博が打撃コーチとして巨人に入団し、一本足打法を開始してからは、数々のホームラン記録を打ち立て、世界の王へと羽ばたいていきました。

墨田と王貞治

 王貞治さんが小学校に入学したのは、昭和22年(1947年)4月です。住んでいた業平地域は、業平小学校に入学する学区域でした。しかし当時の業平小学校には、第二次世界大戦の際に罹災した工場が間借りしていて、また児童の数が多かったため、教室が足りず、1年、2年生は柳島小学校に間借りをした上、さらに二部授業を行っていました。そのため王さんも、業平小学校に入学しましたが、1年、2年生の間は柳島小学校に通学し、3年生から業平小学校に通学しました。
 王さんが野球をはじめるようになったのもこのころです。4年生の時、初めてクラスで野球チームを作り、エースで4番を務めています。5年生の時には、お店で働く店員さんに巨人対中日戦を見に後楽園球場へ連れて行ってもらいました。初めてのプロ野球観戦です。この時、巨人軍の与那嶺(よなみね)要選手にサインをもらいました。ほかの選手がサインをしてくれない中で、与那嶺選手は快く応じてくれました。王さんがサインを断らないのは、この時の思いがあるからです。与那嶺さんは、「何で日本の選手はサインをしてあげないのか、不思議に思いました。彼が王君だったかはわかりませんが、目の大きな子供が軟球を差し出していました。だれもサインをしてあげなかったので、僕がしたことは覚えています」と言っています。この与那嶺選手のサインが、後年の巨人軍入団に影響したことは間違いないようです。
 昭和28年(1953年)、業平小学校を卒業した王さんは、本所中学校に入学しました。卓球部や陸上部で活躍し、特に陸上部では砲丸投げの選手として都大会にも出場するほどでした。さらに2年生の時、それまで休部だった野球部を再開させ、3年生の時には区大会で優勝、都大会へも出場しました。また、近所にあった大人の野球チーム「厩四ケープハーツ」にも入り、エースで5番をつとめました。
 現在、本所中学校には、自筆「気力」の記念碑がたてられています。

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このページはすみだ郷土文化資料館が担当しています。

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