「すみだ 北斎美術館」開館年である平成28年のスタートにあたり、世界中に大きな影響を与え、すみだと深い
[問合せ]広報広聴担当 TEL:03-5608−6223
「すみだ 北斎美術館」開館年である平成28年のスタートにあたり、世界中に大きな影響を与え、すみだと深い
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1760年(宝暦10年)に本所割下水(現在の亀沢周辺)で生まれた北斎は、「母方の曽祖父は吉良家の家臣、小林 平八郎だ」と語っていたと言われています。小林 平八郎は、忠臣蔵において吉良側で目覚ましい活躍を見せた剣豪として描かれています。
また、北斎が4歳の頃に養子となった本所松坂町の幕府御用鏡師・中島伊勢の屋敷は、吉良邸の跡地にありました。北斎と忠臣蔵の不思議な縁を感じさせる逸話です。
なお、かつての吉良邸の一角には、現在、本所松坂町公園があり、いわゆる「吉良の首洗い井戸」が残されています。
錦絵「仮名手本忠臣蔵 十一だん目」
版画制作に欠かせない板木彫りに携わっていた北斎は、19歳の時に浮世絵界の名門であった
錦絵「四代目岩井半四郎 かしく」
120畳もの巨大な
名古屋では、
名古屋でのパフォーマンスを知らせる
摺物「北斎大画即書引札」
(名古屋市博物館蔵)
北斎は多くの絵手本(絵の描き方の教科書)を手掛けましたが、その代表作が『北斎漫画』です。"漫画"とは、気の向くままに色々なものを描くという意味で、人、動植物から、魚、昆虫、建築、風景、果てはお化けまで、ありとあらゆるものが収められています。『北斎漫画』は、日本からフランスに輸出された陶磁器の"包み紙"に使われており、それが偶然に芸術家の目に触れ、印象派の画家たちにジャポニスムが広まるきっかけとなったと言われています。
版本『伝神開手 北斎漫画』初編
絵師として目覚ましい活躍を見せていた北斎ですが、60歳代の私生活は波乱続きでした。62歳の時、四女を亡くし、63歳の時に、長女、
なお、中風を患った北斎は、何と自分で作った薬で回復しました。
薬の作り方
飯島虚心著『葛飾北斎伝』より
北斎と聞いて誰もが思い浮かべる「冨嶽三十六景」。この作品を、北斎は70歳を過ぎてから制作したとされています。"三十六景"と題していますが、実はこのシリーズは46図あります。37図以降の10図は"裏富士"と呼ばれ、36図までの輪郭線が藍であるのに対し、黒が用いられているなどの特徴があります。
また、どこから眺めた富士山を描いたか、定かでない図が含まれていることなどから、歌川広重の「東海道五十三次」に代表される"名所絵"とも一線を画しています。"赤富士"として知られる「凱風快晴」も、どこから眺めた富士なのかはっきりしていません。「冨嶽三十六景」の妙味は、見る場所や季節、時間などによって富士山がどのように変化するか、そして、富士山をどのように配置しているかという構図にあると言えます。
錦絵「冨嶽三十六景 凱風快晴」
晩年の北斎は、三女のお栄とともに作画三昧の日々を送りました。
およそ90年という、当時としては格別な長寿であった北斎は最期に「あと10年、いや、あと5年生きられれば、本当の絵師になれるのに」という言葉を残しました。最期の時を迎えてなお、作画への情熱を燃やし続けていたことがはっきりと表れています。
露木為一画「北斎仮宅之図」
(国立国会図書館蔵)