すみだ区報2016年1月1日号

特集

世界的芸術家・北斎の素顔に迫る

「すみだ 北斎美術館」開館年である平成28年のスタートにあたり、世界中に大きな影響を与え、すみだと深い(ゆかり)を有する葛飾北斎の「あんなこと」や「こんなこと」をご紹介します。

問合せ広報広聴担当 TEL:03-5608−6223

北斎の曽祖父、忠臣蔵で活躍か?

1760年(宝暦10年)に本所割下水(現在の亀沢周辺)で生まれた北斎は、「母方の曽祖父は吉良家の家臣、小林 平八郎だ」と語っていたと言われています。小林 平八郎は、忠臣蔵において吉良側で目覚ましい活躍を見せた剣豪として描かれています。

また、北斎が4歳の頃に養子となった本所松坂町の幕府御用鏡師・中島伊勢の屋敷は、吉良邸の跡地にありました。北斎と忠臣蔵の不思議な縁を感じさせる逸話です。

なお、かつての吉良邸の一角には、現在、本所松坂町公園があり、いわゆる「吉良の首洗い井戸」が残されています。

錦絵「仮名手本忠臣蔵 十一だん目」

浮世絵界に大型新人"春朗(しゅんろう)"現る!

版画制作に欠かせない板木彫りに携わっていた北斎は、19歳の時に浮世絵界の名門であった勝川(かつかわ)派に入門し、すぐに頭角を現しました。入門の翌年には、早くも"春朗"の画名を許され、錦絵「四代目岩井半四郎 かしく」など、続々と作品を発表。勝川派が得意とする役者絵に(とど)まらず、相撲、子ども、武者、美人などを題材として、幅広く活躍しました。

錦絵「四代目岩井半四郎 かしく」

稀代(きだい)のパフォーマー・北斎

120畳もの巨大な達磨(だるま)の絵。45歳の北斎は、護国寺(現在の文京区)の境内でこれを描き上げ、見物人の度肝を抜きました。北斎はこうした"巨大絵"パフォーマンスを、護国寺以外でも何度か行っています。

名古屋では、酒樽(さかだる)に満たした墨汁に筆の代わりのほうきを浸し、助手を務めた弟子たちとともに巨大な紙の上を駆け回ったと言われています。さらに本所合羽(かっぱ)干場(ほしば)(現在の東駒形付近)では大きな馬を、回向院(現在の両国2丁目)では巨大な布袋(ほてい)を描きました。回向院では、米一粒に2羽の雀を描くという"極小絵"パフォーマンスも披露したとされています。

名古屋でのパフォーマンスを知らせる
摺物「北斎大画即書引札」
(名古屋市博物館蔵)

世界を驚かせた"スケッチ集"

北斎は多くの絵手本(絵の描き方の教科書)を手掛けましたが、その代表作が『北斎漫画』です。"漫画"とは、気の向くままに色々なものを描くという意味で、人、動植物から、魚、昆虫、建築、風景、果てはお化けまで、ありとあらゆるものが収められています。『北斎漫画』は、日本からフランスに輸出された陶磁器の"包み紙"に使われており、それが偶然に芸術家の目に触れ、印象派の画家たちにジャポニスムが広まるきっかけとなったと言われています。

版本『伝神開手 北斎漫画』初編

波乱続きの60歳代

絵師として目覚ましい活躍を見せていた北斎ですが、60歳代の私生活は波乱続きでした。62歳の時、四女を亡くし、63歳の時に、長女、阿美与(おみよ)が離婚。さらに68歳頃には、自身が中風(脳卒中)を患ったうえ、三女、お(えい)が離縁して家に戻りました。69歳で後妻、ことが亡くなり、70歳の頃、孫の放蕩(ほうとう)に苦しみました。一説では、孫が作った借金の返済を迫られ、借金取りから逃げ回っていたとも言われています。

なお、中風を患った北斎は、何と自分で作った薬で回復しました。

薬の作り方
飯島虚心著『葛飾北斎伝』より

名作「()(がく)三十六景」誕生

北斎と聞いて誰もが思い浮かべる「冨嶽三十六景」。この作品を、北斎は70歳を過ぎてから制作したとされています。"三十六景"と題していますが、実はこのシリーズは46図あります。37図以降の10図は"裏富士"と呼ばれ、36図までの輪郭線が藍であるのに対し、黒が用いられているなどの特徴があります。

また、どこから眺めた富士山を描いたか、定かでない図が含まれていることなどから、歌川広重の「東海道五十三次」に代表される"名所絵"とも一線を画しています。"赤富士"として知られる「凱風快晴」も、どこから眺めた富士なのかはっきりしていません。「冨嶽三十六景」の妙味は、見る場所や季節、時間などによって富士山がどのように変化するか、そして、富士山をどのように配置しているかという構図にあると言えます。

錦絵「冨嶽三十六景 凱風快晴」

絵への情熱、晩年も衰えず

晩年の北斎は、三女のお栄とともに作画三昧の日々を送りました。榿(はんのき)馬場(ばば)(現在の両国4丁目)での北斎の様子を門人が描いていますが、そこには布団にくるまって黙々と作画に励む80歳を超えた北斎と、キセルを片手にその手元を見つめるお栄がいます。

およそ90年という、当時としては格別な長寿であった北斎は最期に「あと10年、いや、あと5年生きられれば、本当の絵師になれるのに」という言葉を残しました。最期の時を迎えてなお、作画への情熱を燃やし続けていたことがはっきりと表れています。

露木為一画「北斎仮宅之図」
(国立国会図書館蔵)