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すみだの産業(特長・歴史)

ページID:925666096

更新日:2018年10月29日

東京23区の中でも屈指の『ものづくりのまち』

区内産業は、全産業のうち、製造業の占める割合が多く、様々な業種の製造業が集積し、大都市東京における多種多様な需要に対する日常生活関連用品・技術の供給地となっています。

23区の工場数グラフ
23区の工場数(「平成28年経済センサス活動調査」より)

『9人以下』の小規模事業所が約8割を占める

IT化が進んだ現在でも、ビジネスにとって「取引先とのコミュニケーション」はとても重要です。多品種・小ロット生産・短納期を得意とする墨田区の企業と、顔や技術の見える距離・関係、集積の多様性などを活かすことが可能です。

従業員規模別にみる事業所の割合グラフ
従業員規模別にみる事業所の割合(「平成28年経済センサス活動調査」より)

印刷・金属・繊維・革など多様な業種が集積

多種多様な業種が集積し、企業同士の交流が盛んなこの地域で、「産業集積のメリット」を最大限に活かし、小規模企業の多彩なネットワークとスピード、技術対応力によって、ユーザー・消費者のニーズに応える都市型のものづくりが展開されています。

墨田区における工場数の業種別構成比グラフ
墨田区における工場数の業種別構成比(「平成28年経済センサス活動調査」より)

江戸の技を受け継ぐ伝統工芸

墨田区は古くからものづくりのまちとして知られ、今なお多くの職人たちが伝統の技を継承し活躍しています。このような職人たちによるすぐれたものづくりを間近に感じることができるのも、すみだの産業の特長の1つです。

すみだの産業のあゆみ

1700年~(江戸時代) 水運に恵まれた立地で、大消費地・江戸を支えた地場産業

隅田川とその支流を巡る川底の土が瓦の素材に適していたため、大量に生産され、発達した大小河川によって四方に運搬されました。また、小梅の新銭座では元文元(1736)年に寛永通貨の銅銭を製造していました.

本所堅川の材木問屋風景写真
本所堅川の材木問屋風景(葛飾北斎画)

1870年~(明治時代) 明治以降、日本の近代産業発祥の地として発展

この地域では、明治に入ってすぐ、近代産業が発展していきました。本所地区においては武士の没落による人的資源の余剰により早く工業の導入が促進されました。一方、向島地区の工業発展の道程を辿ってみると、ひとつは農家自体における家内工業から発達してきた面と、地主達の大工業導入運動による土地提供の結果、さらに輸送路に着眼して大工場が進出した面の両方を見ることができます。

創業開始当時の鐘淵紡績写真
創業開始当時の鐘淵紡績

1920年~(大正~昭和初期) 関東大震災で本所地区は大打撃

1923(大正12)年9月1日の大震災により、本所区の95%、5人以上の工場804か所が焼失してしまいました。その後多くの大工場が郊外へ移転しましたが、昭和に入ると本所区はメリヤス、紙製品、裁縫、玩具を中心に、中小企業の集積地となっていきました。
また、震災復興工事によって基盤整備も進み、鉄道や道路が都心と直結することで農地はさらに工業地帯に変貌し、工員や関連業者らも集まって住宅地帯が形成されていきました。

1940年~(昭和戦前・終戦) 軍需・兵器生産のみに傾斜した生産体制 そして、敗戦、戦後へ

1937(昭和12)年頃より、工場は漸次軍需工場化していきました。1945(昭和20)年3月10日の東京大空襲では、本所区の96%、向島区の57%が焼失、そして敗戦を迎えました。1950(昭和25)年に勃発した朝鮮戦争は、日本に朝鮮動乱特需景気をもたらしました。これによって、いわゆる 「糸へん(繊維関連産業を指す)」ブームが起こり、繊維産業をはじめ、金属や機械などの生産を活発にしました。

1960年~(高度成長期) 戦後の高度経済成長期に区内産業は大きく発展。区内工場は1970(昭和45)年、9,703事業所とピークに

高度経済成長期に入り、都市化が進展しました。1960年代に入っても区内にはどんどんと工場が増え続け、1970(昭和45)年には9,703事業所とピークを迎えました。しかし、用地狭小、公害、労働力不足、交通事情の悪化など様々な問題が生まれ、1970年代中頃には、さらに多くの大工場が工場拡張等のため、区外へ移転していきました。
区内企業の減少を受け、墨田区は早い時期から区内製造業に対する支援を区政の重要な柱と位置づけ、中小企業の実態を調査するべく、1977~1978(昭和52~53)年の2年間で中小製造業基本実態調査を実施し、翌1979(昭和54)年には全国初となる中小企業振興基本条例を制定しました。

朝日麦酒吾妻橋工場写真
朝日麦酒吾妻橋工場

製品写真
軟式野球ボール(左)、プラスチックを使用した玩具(中央)、国産初のデスクトップ型コンピュータ(右)

2000年~ 新しい産業支援のカタチへ

2000(平成12)年、両国に国際ファッションセンター株式会社が完成し、新しい産業支援も開始しましたが、 1997(平成9)年には株式会社精工舎が閉鎖するなど、事業所の数は減少を続けます。一方で、その跡地に2006(平成18)年、複合型商業施設「オリナス」が開業し、錦糸町駅北口再開発を含め区内にサービス業が増え、産業構造の高度化が進展します。
墨田区では、後継者不足を最大の課題とし、2004(平成16)年から「フロンティアすみだ塾」を開設するほか、2002(平成14)年には、早稲田大学と包括協定を締結し産学官連携事業を開始、2006(平成18)年に現・東京スカイツリー(R)の建設地が押上・業平橋駅周辺に決定したことを機に、墨田区では産業と観光の融合が推進されていきます。2009(平成21)年には、すみだの優れた技術・商品・サービスを国内外に提供・発信する「すみだ地域ブランド戦略」が開始され、すみだ3M運動と共に観光との連動が図られます。

中小企業のまち すみだから世界へ

2012(平成24)年5月に「東京スカイツリー(R) 」が開業すると、世界中から観光地としても注目を集め、2018(平成30)年には区内人口が27万人を突破しました。
2013(平成25)年3月に策定した墨田区産業振興マスタープランでは、産業構造の高度化を踏まえ、産業と観光の融合、メイカームーブメントへの対応、新分野への進出などを打ち出しました。2015(平成27)年には、すみだ地域ブランド戦略がグッドデザイン賞を受賞し、2016(平成28)年には、ワールドデザインキャピタル台湾に出展するなど、すみだのものづくりの市場は新たに拡大しています。
また、区事業による「新ものづくり創出拠点」の整備や民間事業者によるものづくりの拠点施設の誕生など、新しいものづくりを生み出す動きが見られています。
このように、今、すみだでは、世界へとはばたき、高い評価を受けている製品が続々と誕生し、すみだのまち、ものづくりが再び活気を取り戻しています。

生産品写真

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このページは産業振興課が担当しています。