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企画展「赤穂事件と忠臣蔵 事件はどう語りつがれてきたか」

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更新日:2007年3月8日

開催期間:平成15年11月15日(土曜日)から12月21日(日曜日)まで
 平成14年は赤穂浪士の吉良邸討ち入りから300年にあたる年でした。そして平成15年は、赤穂浪士に切腹の裁定が下り、浅野内匠頭長矩の殿中刃傷にはじまる一連の事件が決着して300年にあたります。この企画展は、それにちなんで開催したものです。
 「忠臣蔵」は、演劇や絵画、読み物など、幅広いジャンルにわたって、多くの人々に親しまれてきました。現在でも、「忠臣蔵」を題材とした映画や小説、テレビドラマなどの作品が新しく生み出されています。それは「忠臣蔵」が、それだけ魅力のある物語であることを示しています。
 一方で、そうした「忠臣蔵」物のフィクションの部分に隠れて、史実としての赤穂事件については、それほどよく知られてはいないと思われます。本企画展では、絵画などの資料を中心に、庶民に好まれ流布してきた「忠臣蔵」像を紹介し、事件がどのように語りつがれてきたかを解説し、また、それらと史実がどのように異なるのかを紹介しました。

赤穂義士討入之図 山崎年信(二代)画、明治19年(1886年)

主な展示資料

「義士墨跡」
元禄15年から16年(1702年から1703年)、赤穂市立歴史博物館蔵
 細川家お預けの浪士たちの世話役であった堀内伝右衛門が、浪士たちと懇意になり、折を見て所望した手跡を集めて一巻にしたもの。堀内は、細川邸での浪士たちの様子を、「堀内伝右衛門筆記」に書き記している。本資料には堀内が、切腹の直前に、一人一人に言い残すことはないか尋ねてまわった際に書いてもらった辞世などの書付も収められている。他に「浅野内匠家来口上」、「四十六士の四大名家へのお預け覚」を含む。「浅野内匠家来口上」は、討入りの際に浪士たちが吉良邸に持参したものを、堀内に請われて原惣右衛門が認めた写しである。
「吉良流礼法」
文化13年(1816年)、吉良町教育委員会蔵
 岐阜の吉良流礼法家・小野周輔が書いた礼法書で、婚礼の際の礼法が記されている。吉良流礼法は、吉良家が伝統的な朝廷の儀式や、鎌倉・室町の武家の礼法など、有職故実を踏まえて興した礼法で、義央の祖父・義弥が高家筆頭に任ぜられたことで名声を高め、多くの大名家に普及していった。本資料は吉良流礼法が、吉良絶家後も諸国の礼法家の間に生き続けたことをうかがわせる。

「仮名手本忠臣蔵」とは

 浅野内匠頭長矩の殿中刃傷事件に端を発し、翌年の赤穂浪士の吉良邸討入り、切腹にいたる一連の事件を、史実としての事件を指す場合は、赤穂事件と呼称することが多い。しかし、この事件は、一般的には「忠臣蔵」として知られ、そのように呼んだほうが通りがいい。それは、討入りから47年目の寛延元年(1748年)に上演され人気を博した「仮名手本忠臣蔵」の影響に他ならない。
 「仮名手本忠臣蔵」(以下「仮名手本」と略記)以前から、赤穂事件を題材とした演劇は「鬼鹿毛無佐志鐙」、「碁盤太平記」など数多く上演されたが、「仮名手本」はその集大成ともいえるものだった。「仮名手本」は、竹田出雲・三好松洛・並木千柳の合作の人形浄瑠璃で、寛延元年8月14日から、大坂道頓堀の竹本座(たけもとざ)で初演され、大当たりした。同年中に歌舞伎化もされ、現在にいたるまで反復上演されている。ちなみに「忠臣蔵」とは、手本になる忠臣がたくさん入っている蔵という意味である。
 江戸時代は、当代に起こった政治的事件をそのまま劇化することは禁じられていたため、時代を遠い過去の歴史的世界に設定する必要があった。「仮名手本」も、赤穂事件を「太平記」の世界に仮託して脚色されたものだった。役名は、吉良上野介が高師直、浅野内匠頭が塩冶判官、大石内蔵助が大星由良助のように変えられていたが、それが誰を指すものであるかは明らかだった。例えば吉良を高師直に、浅野を塩冶判官に擬しているのは、吉良が高家筆頭であったことや、浅野の領地の赤穂が塩田経営で知られる土地であったことと暗合するものだった。
「仮名手本」の大当たりにより、「忠臣蔵」という名称は、演劇・小説・講談などの文芸作品にとどまらず、次第に赤穂事件そのものをも指すものにまで拡大していった。そして、「仮名手本」や「忠臣蔵」物の文芸の、フィクションの部分が、あたかも史実であるかのような誤解を生むことにもなったのである。

赤穂事件と「忠臣蔵」

「殿中刃傷事件」
 元禄14年(1701年)3月14日、年頭の挨拶のため下向した勅使一行を接待する勅使御馳走役を務めていた播磨国赤穂藩主・浅野内匠頭長矩が、江戸城本丸御殿松之廊下において、高家筆頭の吉良上野介義央にいきなり斬りかかった。義央は、勅使の下向を含めて天皇と将軍の間の年頭挨拶全般を取り仕切る立場にあり、長矩も義央の指導の下、その任に当たっていた。
 長矩は田村右京大夫建顕に預けられた上、即日切腹、浅野家は取り潰しという重い処分を受けた。一方義央は、抵抗しなかったことを理由に、お構いなしとされた。この事件の原因については、長矩が義央に賄賂を贈らなかったために、数々の嫌がらせを受けたことによる怨恨(えんこん)によるものとの説をはじめ、さまざまな説があるが、いずれも確かな根拠はなく、永遠の謎である。しかし、原因の十分な究明がなされないまま、長矩が切腹させられたため、さまざまな憶測を呼ぶことになる。
 また、この時の幕府の処分が浅野家旧家臣の不満となり、後の吉良邸討入りへと展開する結果となった。
「赤穂城明け渡し、討入りへの軌跡」
 長矩の刃傷・切腹の知らせは、早打ち駕籠で3月19日に赤穂にもたらされた。長矩のみ切腹・城地没収という重い処分を受け、義央はお構いなしという幕府の裁定は、浅野家旧家臣に大きな不公平感を抱かせるものであった。そのため、無抵抗のまま城を明け渡すのか否かをめぐり、城中は紛糾した。筆頭家老・大石内蔵助良雄は、長矩の弟・浅野大学長広を後継とする浅野家の再興、義央の処罰を実現すべく画策するが、目的を達しないまま城を明け渡すこととなった。
 大石は城明け渡し後、城下の遠林寺において残務処理に当たる一方、引き続き浅野家再興への努力を続ける。残務処理を終えた大石は、京都の山科(やましな)に移るが、引き続き浅野家再興実現のための運動を続ける。その間、「仇討ち」の早期実行を迫る堀部安兵衛ら江戸の急進派の行動を抑え続けなければならなかった。そして一時は、急進派におされ、元禄15年(1702年)3月の長矩の一周忌を期して「仇討ち」を決行することに同意する。しかし、元禄15年2月15日の山科会議では、長広の処分を待って、事を起こすことが決議され、「仇討ち」は延期された。
 一方吉良義央は、元禄14年12月11日に隠居し、家督を養子の義周に譲った。ここに幕府が義央を処分する可能性がほぼ断たれた。さらに元禄15年7月18日、長矩の養嗣子であったことから閉門を命じられていた長広の閉門が解かれ、知行召し上げの上、広島藩・松平綱長のもとに差し置かれることとなった。ここに浅野家再興の望みも断たれたのである。7月28日、京都円山で開かれた円山会議において、義央を討ち取ることが決議された。上方の同志たちは続々と江戸へ向かい、大石も10月7日京都を発ち、江戸へ向かった。赤穂浪士たちは討入りに向かって動き始めたのである。
「吉良邸討入り」
 元禄15年12月14日、赤穂浪士たちは本所林町の堀部安兵衛借宅・本所徳右衛門町の杉野十平次借宅に集合し、本所相生町の神崎与五郎・前原伊助の店で合流して吉良邸に向かった。
 表門と裏門の二手に分かれ、それぞれに邸内に侵入し、抵抗する者を次々になぎ倒していった。当時吉良邸内には約150人がいたが、寝込みを襲われ、100人にも及ぶ者が長屋に閉じ込められ、応戦もままならなかった。義央の寝所は裏門に近かったため、裏門組は直ちにそこを目指したが、義央の姿はなかった。浪士は、討入り後1時間程度で吉良邸内を制圧し、以後は義央の探索に勢力が費やされることとなった。そして寝所近くの炭部屋と思しき部屋で義央を発見し、討ち果たし、義央の首を携え一党は泉岳寺の長矩の墓所へ引き揚げた。
 約2時間の激闘で、吉良方は義央以下17人の死者と、吉良義周以下28人の負傷者を出した。一方、浪士側に死者はなく、負傷者も軽傷であった。

「赤穂浪士処断」
 泉岳寺引き揚げの途中、吉田忠左衛門と富森助右衛門の2名が別行動をとって、大目付仙石伯耆守久尚に自訴し、幕府の処分を待つこととなった。幕府は評議の結果、大石内蔵助以下17名を熊本藩細川綱利へ、大石主税以下10名を伊予松山藩松平定直へ、岡島八十右衛門以下10名を長府藩毛利綱元へ、間十次郎以下9名を岡崎藩水野忠之へ、当分の間預けることとした。
 吉良邸討入りから約1ヶ月半後の元禄16年(1703年)2月4日、赤穂浪士に切腹の裁定が下された。斬首などではなく、切腹に処したのは、武士としての名誉を保つ措置であった。この日、浪士たちはそれぞれお預けの大名家で切腹して果てた。
 また、処分は浪士たちの遺児(いじ)にも及んだ。浪士の遺児19人に遠島流罪が申し渡され、内15歳以上の4名が実際に伊豆大島に流罪となり、15歳以下のものは親類預けとなった。遠島になった4名の内1名は、赦免(しゃめん)を待たず、遠島中に死亡した。
吉良家の「忠臣蔵」
 元禄16年(1703年)2月4日、赤穂浪士とその遺児への処分と同時に、吉良家の当主義周にも処分が下された。領地召し上げの上、信濃国高島藩諏訪家にお預けというものであった。この処分は、命を捨てても親を守るべきところ、そうしなかったのは不届きであるという理由で下された。小薙刀を振るって奮戦し、負傷しているにも関わらず、そのような理由で処断されたのである。義周は、配流から3年後に21歳の若さで病死し、名門吉良家は断絶することとなった。
 さらに、吉良家をとりまく世間の冷たく厳しい目は、家臣や領民にも及んだ。そして、「仮名手本忠臣蔵」によって流布した悪いイメージが、吉良家の縁故者に追い討ちをかけた。家臣の墓の中には所在不明になったり、親族の手で戒名が削り取られたものもある。また清水一学の実家の子孫は、姓を変えなければならなかった。吉良家健在の頃は隣村に対して優位であった宮迫の村民は、何ごとにも隣村に対して遠慮しなければならなくなった。事件の波紋はこのようなところにも現れているのである。

語りつがれる物語

 赤穂浪士の討ち入りをめぐって、140年にもわたって、賛否両論がたたかわされた。四十六士を「義士」として賞賛した室鳩巣の「赤穂義人録」は討ち入りに対する賛成意見の代表的なものである。一方、佐藤直方の「四十六人之筆記」などは、討ち入りを法に反する行為として批判するものだった。
 そのような、実際の事件に即した議論があった一方で、「仮名手本忠臣蔵」をはじめとする演劇や、文芸作品などを通じて、フィクションと史実が混同された赤穂浪士のイメージが広がった。それは、彼らを「義士」として偶像化するという面を、色濃くもつものであった。また、赤穂浪士の墓所のある泉岳寺は、「忠臣蔵」ゆかりの名所となり、四十七士の墓所には現在でも香華が絶えることがない。
 明治以降には、「忠臣蔵」が教科書に取り上げられたり、海外に紹介するために翻訳されたりするようにもなった。また福本日南の「元禄快挙録」に代表されるような「義士」礼賛型の作品が数多く生み出される一方で、三田村鳶魚の「横から見た赤穂義士」のように、「義士」の偶像化を批判したり、重野安繹の「赤穂義士実話」のように、近代実証史学の立場から「仮名手本忠臣蔵」を徹底的に批判したものなども現れた。

暮らしの中の忠臣蔵

 「仮名手本忠臣蔵」の初演以来、「忠臣蔵」物の演劇は反復上演され、多くの人を楽しませた。また、演劇にとどまらず、浮世絵・絵暦・絵馬・黄表紙・講談・落語、現在では映画やテレビ、小説などを通じて、多くの人に浸透している。
 そうした中で、暮らしの中で使われているさまざまな物の意匠(いしょう)に「忠臣蔵」が使われているものも少なくない。それは「忠臣蔵」が、人々の暮らしの中にまで深く浸透していることを物語っている。ここでは、その例として、カレンダーや引札を紹介する。
 また「忠臣蔵」は、おもちゃの素材にもなっている。「忠臣蔵」を素材としたおもちゃには、絵双六や組上絵、着せ替えなどさまざまな種類があるが、これらは子供の世界にも「忠臣蔵」が浸透していたことを物語っている。

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