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企画展「描かれた東京大空襲絵画に見る戦争の記憶」

ページID:174150860

更新日:2007年2月20日

開催期間:平成16年1月31日(土曜日)から3月21日(日曜日)まで
 東京空襲の被災の状況・実態をビジュアルに確認できる写真や絵画は、空襲の真実をより直接的に把握できる重要な記録といえます。しかし、こうした資料は、これまで体系的な収集がほとんどなされておらず、精力的な画家たちが描いてきた稀少な空襲画や、故石川光陽氏が撮影した被災写真などがわずかに知られるにすぎません。当館では、平成15年4月以後、広く空襲体験者に、ご自身が直接に見、体験した記憶に残る光景を自らの手で描いた、被災体験画の提供を呼びかけました。その結果、墨田区民ほか、関東近県在住の体験者・86人の方々より、約200点に及ぶ絵画が区に寄せられました。この企画展は、これらの空襲体験画を一堂に展示・紹介する、初めての展示会です。空襲体験者が、その辛い体験と向き合い、懸命に描かれた絵画を通じて、東京空襲とは何だったのか、その真実の一端が明らかになることを望んでやみません。

絵画が語る東京空襲の記憶

 空襲体験が体験者に及ぼした影響は、精神的にも物質的にも、一人一人違ったかたちをとっている。愛する家族を亡くし、家を無くした記憶。孤独な疎開先で、両親が住む燃える東京の町を見た記憶。空襲で傷害を受けた人々の記憶。そして空襲後に遺体が積み重なる町中を、家族を捜し歩いた記憶。それぞれの体験者の人生を規定した原体験、脳裏に刻まれた東京空襲の「残像」。彼らは、その忘れ得ぬ印象を絵に描き、「言葉では語り得ぬもの」を人々に伝えようとしている。東京空襲の真実を知るために、私達は、こうした体験者の心の奥底に秘められた「声なき思い」を、まず真摯に受け止めなければならない。絵画は、散文的な文章に比べ、表現者の心象をより直感的に伝え得る媒体であるが故に、それを知る上で、もっとも適切な素材の一つとなるのである。
 体験者の心の奥底に刻まれた「空襲の記憶」を絵から読む。上記の趣旨から、展示では、出品絵画の1点1点に、体験者が絵に込めた思いと空襲体験の内容を、絵画提供者自身の「手記」や言葉の「聞き取り」をもとにまとめたキャプションを付し、絵の理解の助けとした。しかし、「言葉では語り得ぬもの」は、絵画表現そのもののなかに、より直感的・直接的に表出され、体験者が伝えたい最も大切なメッセージは、むしろ、その中にこそ、込められていると思われる。

空襲の絵画

空襲の絵画

空襲の絵画

主な展示作品

1945年(昭和20年)3月10日言問橋炎上、家族全員を亡くした橋の記憶(狩野 光男 画)

1945年(昭和20年)3月10日言問橋炎上、家族全員を亡くした橋の記憶(狩野 光男 画)
手記から抜粋:
 昭和20年3月10日未明、米軍爆撃機三百余機、東京下町に2千トンもの焼夷弾を落下し、浅草、本所、深川を炎の海と化した。火に追われた人々は公園、学校、劇場に避難したが、ここで力尽きて焼死する者、あるいは川に逃れて溺死する者。その数十万余と云われているが実際には東京湾深く沈み、又は外洋に流れ去った数は判明していない。
私は、浅草千束町から言問橋浅草側の隅田公園に到ったが、公園は人が一杯に埋まり、火勢が強まるに及んで人々が一斉に移動を始め大混乱となり、それまで一緒だった家族とはぐれた。酸素の欠乏で呼吸も苦しくなり、雨のようにふりそそぐ火の粉の熱さに耐えかね、川にとびこんだが、川面には達せず、途中の石段に割り込んで入り、燃え上る言問橋を見上げた。橋上は燃え上り人々はらんかんにはりついていた。時折、焼トタンが風を切って川の半ばまで飛んで行った。
火の粉も容赦なくふりそそいだ。夜が明けてもくすぶりつづける煙で太陽もかすんでしか見えなかった。言問橋の下に生き残った者が、二十名程集まったが、他はすべて、焼死か水死していた。私はここで一家6名を亡くし自分一人のみ命を永らえた。時に、旧制中学2年生の3学期であった。
 学童疎開をしていて帰ってみると一家全滅という人を何人か知っている。その人たちは自分の家族の最期を知らない。この絵の中に、その人たちの家族がいるかも知れない。

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