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事業の様子

ページID:727768942

更新日:2021年2月8日

活動の一部紹介

きねがわスタンプラリー

※令和2年度の『文化祭』『きねがわスタンプラリー』は、新型コロナウィルス感染症予防のため、中止となりました。
 2019年で5回目となるきねがわスタンプラリーが、10月20日(日曜日)快晴のもと開催されました。
 2015年からはじまったスタンプラリーも徐々に地域の方々に知られるようになり、今年の参加者数は580人と多くの方に参加していただき楽しんでもらいました。
 各会場では、特別展示、施設公開、皮革工芸体験による作品づくりもあり、遊びながら学べる体験イベントとして年々好評を得ています。「このような施設が東墨田にあることが知らなかった勉強になった」「楽しみながらラリーをまわれた」など、主催者側としてうれしい言葉をたくさんいただきました。
 スタンプラリー参加の大人の方には、協賛企業・団体から革製品、レトルトカレーなどが配られるとともに、幼児・小学生にも参加景品が配られ、喜ばれました。

きねがわスタンプラリー特別展示

特別展示「社会福祉会館周辺の歴史と幻の京成白髭線」を一部紹介

京成荒川駅(八広駅)の歴史


昭和30年代 京成荒川駅と土手(八広駅)


昭和30年代の京成荒川駅(八広駅)の写真(資料提供すみだ郷土文化資料館)

  • 京成荒川駅(八広駅)の歴史は古く1923(大正12)年7月に駅が開設しました。京成電気軌道株式会社(京成電鉄)が開通した年は、1912(大正元)年11月3日で開通当初は押上駅を起点として曳舟駅-四つ木駅-立石駅―曲金(高砂)-伊予田(江戸川)間と支線の柴又間が最初となります。
  • 1914(大正)3年には、木下川薬師道(八広新仲通り)と京成電軌の路線が交差する位置に向島駅が開業しました。向島駅は太平洋戦争末期の空襲により焼失し、1947(昭和22)年に廃止となりました。
  • 開通した当時は、荒川放水路はまだできておらず周辺の河川は綾瀬川、中川と江戸時代に開削された曳舟川と中居堀が現在の葛飾区とつながっていました。
  • 1913(大正2)年に荒川放水路開削工事がはじまり、荒川放水路開削予定地となった用地の買収、関係町村の配置分合が行われたことにより大木村(現在の八広、東墨田)が廃止されて吾嬬町に編入しています。
  • 編入後、大木村立尋常小学校の名称が第三吾嬬小学校へと替わりました。この年に東京駅が落成して東京―横浜間の電車運転がはじまります。
  •  荒川放水路の開削工事が進む中、京成電軌は、荒川放水路を渡るため直角で進行できるよう軌道の修正と荒川放水路架橋工事が行われることになり、1921(大正10)年に荒川放水路架橋工事の着工をしています。1923(大正12)年7月1日に荒川放水路架橋工事が完成し、同月に京成荒川駅を開業しました。
  • 軌道修正により四つ木駅、立石駅も移設しています。2か月後の9月1日に関東大震災が発生し軌道が破壊されましたが、9月5日に荒川―千葉間を復旧して運行を開始しています。9月8日には押上―荒川駅間を復旧して全線開通となり無料輸送を行いました。

旧四つ木橋の歴史


旧四つ木橋写真(資料提供 すみだ郷土文化資料館)

  • 写真は荒川放水路に架かる木造の旧四つ木橋です。人工河川の荒川放水路ができたことにより1922(大正11)年に橋が架けられるようになりました。荒川(現在の隅田川)は、江戸時時代の頃から頻繁に洪水がありました。明治時代になっても洪水は続き1868(明治元年)から1910(明治43)年の間に床上浸水などの被害をもたらし10回以上発生しています。
  • 荒川放水路ができるきっかけとなったのは、1907(明治40)年の水害の後、東京市議会に排水用の川をつくるよう意見書が出されたことからはじまります。1908(明治41)年にも「荒川分水開削に関する建議」が出され、このような動きを背景に国の内務省で荒川放水路の計画が練られていました。そして、1910(明治43)年の大洪水で計画はさらに進められ1911(明治44)年度から荒川の下流に放水路をつくための調査を行います。
  • 内務省は関東一円にわたる治水計画を立て、その一部として荒川については、埼玉県の熊谷上流あたりから東京湾までの全部を改修することにしました。荒川が増水したときは岩淵水門で水門を閉めて隅田川と分離する計画でした。
  • 墨田区の地域としては1913(大正2)年に荒川放水路開削工事が始まり南葛飾郡の大木村(明治11年に大畑村、木下村、上木下川村、下木下川村が合併)は廃止されて墨田区北部の地形は大きく変わっていきます。
  • 荒川放水路は1910(明治44)年の計画からはじまり1930(昭和5年)に東京湾までの放水路工事に20年の歳月がかかっています。荒川の計画により、荒川の真ん中(現在の木根川橋の下流)に位置していた木下川薬師(浄光寺)は、葛飾区側に移転が決まりました。
  • 大正5年に万福寺と木下川薬師の境内にあった白髭神社は、東墨田三丁目に移転が決まりました。上木下川では42戸のうち20戸ほどが葛飾区に移転しています。下木下川の村落は、ほとんどが予定地に入ってしまい川の西と北に移転しました。
  • 文政の頃から旧中川北岸(東墨田東公園・東墨田3-19)に6000坪の木下川梅園がありました。明治初期には勝海舟の別荘にもなった梅園も明治43年の大水害により樹木は枯れてしまい、その後、荒川予定地と重なり、中川水門(木下川水門)ができたことで梅園はなくなりました。葛飾区にも木根川の名称があるのは放水路により村落が分断したことからきています。元の地名は木下川となりますが葛飾区では昭和40年代に木根川へと地名を変更しています。
  • 旧四つ木橋が架橋していた位置は、京成鉄道橋と木根川橋の中間で八広中央通りを荒川に向かい土手の辺りにありました。架橋は1922(大正11)年6月30日から開通となっています。その後、新四つ木橋が1952(昭和27)年に開通すると、荒川を渡る橋梁は木造の四つ木橋から鋼橋の橋へと替わりましたが、旧四つ木橋はしばらく残り1964(昭和44)年に撤去されました。写真の旧四つ木橋は荒川河川敷整備前のもので昭和30年代前半の頃のものと思われます。

京成白髭線の歴史


白髭駅に停車する京成白鬚線(モハ33形)(写真資料提供 すみだ郷土文化資料館)

  • 写真の京成白鬚線は、現在(2019)から83年前に京成押上線の支線として向島-長浦-玉の井ー白鬚を走っていた鉄道路線です。開業は1928(昭和3)年4月7日から1936(昭和11年)2月28日まで運行して3月1日に廃止となりました。軌道の痕跡もない路線で幻の鉄道路線といえます。向島駅は、曳舟駅と八広駅の中間にあり、木下川薬師へ通じる道と京成の軌道が交差する位置に、大正3年から開設していましたが、戦争による空襲で焼失して、昭和22年廃止となっています。
  • 白鬚線の開通から廃止までの経過をたどると、明治末期から鉄道が重要な輸送機関として、私鉄各社がそれぞれ路線を敷いて発展していきました。国は1906(明治39)年に鉄道国有法を施行したことで、私鉄であった日本鉄道株式会社(山手線・高崎線・東北線・常磐線)甲武鉄道株式会社(中央線)総武鉄道株式会社(総武線)各社を国有化していきます。現在の山手線、中央線、総武線は鉄道省の国有鉄道となり、省線と呼ばれていました。国有化以降、私鉄の建設は山手線外延に限られていました。
  • 私鉄の東武鉄道、京成電軌(京成電鉄)は、乗客数を伸ばすためにも都心部(山手線内)または東京市域商業圏(浅草・上野)まで延伸することが必要とされ、いくつかの都心乗り入れのための路線の申請をしています。路線認可のためには、鉄道省の諮問機関でもある東京市会での認可が必要でした。
  • 東京市会では、路線を通る地元住民の意向を聞き、路線変更による街の衰退の危惧、人力車組合の反対などのほか、東京市内を通る鉄道は市電か地下鉄によるものとして、路線認可を得ることが難かしい状況でした。このため東京市内を走る鉄道として東京地下鉄道(地下鉄銀座線)が先に認可が下りています。
  • 京成電気軌動株式会社(京成電鉄)は、1911(大正元)年の開業当初から都心乗り入れ計画として、押上を起点とする市電との接続で浅草までの路線計画を考えていましたが、東京市区改正事業による北十間川の開削工事により、押上駅の位置が後退したことで実現することが困難でした。
  • 白鬚線は、京成電軌株式会社(京成電鉄)が都心乗り入れ計画路線として、大正7年に向島-白髭間の路線認可(未着工)を得ていました。白鬚から延伸して白髭橋を渡り三ノ輪橋で王子電気軌道(都営荒川線)と接続する計画もありましたが、白鬚からの延伸の許可は下りていません。向島ー白鬚間は、東京府南葛飾郡吾嬬町と寺島村を結ぶ郊外路線でしたが、この頃には、白鬚橋と大正通り(大正通り・いろは通り)はつながり、隅田川畔には、撮影するのに適した空気が澄んで静かな杉山義丸の別荘のあとに1903(大正2)年に日活向島撮影所が開設しています。撮影所が制作した「カチューシャ」は大ヒットとなり、3部作まで作られるました。京島にあった高松プロダクションとともに墨田区北部は映画の町として有名でした。
  • 京成電軌(京成電鉄)は、新たな都心乗り入れ路線として荒川駅(八広駅)が開業する前に荒川ー下谷車坂(上野)間の路線申請をしましたが1923(大正12)年6月に東京市会において不許可となっています。荒川駅開業後から2か月後の9月1日に、関東大震災が発生し、東京市、神奈川県は甚大な被害を蒙りました。
  • 関東大震災により、墨田区の街は大きく変貌していきます。旧本所区は家屋の倒壊と火災によって、ほとんどの家、建物が焼失して、多くの人命も失われ、東京市被害の8割になるほどの被害を受けています。焼失した東京市域から郊外の墨田区北部へ移転が増加していきました。特に、浅草区にあった通称「浅草十二階下」と呼ばれる500軒程の銘酒屋が灰じんとなり、東京市内での再開ができないことから、近郊の玉の井と亀戸にそれぞれ半数ほど移転したことで、玉の井は急激に歓楽街へ変わります。日活向島撮影所は、応急して撮影しましたが復旧することができず京都に移転しています。
  • 東武鉄道は、震災の翌年、公共輸送のため明治41年に廃止となった白髭駅を玉の井駅(東向島駅)と名称を替えて駅を再開しています。(※地名は玉ノ井が正式ですが駅名は玉の井の名称となります)玉の井駅が再開して2か月後に、都心乗り入れ路線として、業平橋(スカイツリー駅)-浅草雷門駅(浅草駅)の延伸許可が下りています。
  • 旧本所区は、復興計画のもと徐々に復興のきざしが見える中、墨田区北部は当時、東京府南葛飾郡のため、復興計画による街区整備などは行われていない状況の中 焼失地域からの移転と交通網の復旧、拡大により市域外へ人口の流動がおこり南葛飾郡吾嬬町、寺島村も寺島町へと町制へと替わります。住宅、工場が増えていき、未着工だった白髭線の路線区間の町の様相も農村から町へと大きく変わっていきます。
  • 京成電軌は、浅草までの路線計画を何度か申請し取り下げたのち、吾嬬町請地口(押上三丁目)ー浅草花川戸間の申請を1927年(昭和2)年10月に東京市会に提出しています。この申請と同時期に、向島ー白鬚間の町の発展状況が大きく変わったことから、乗客数が見込まれたこともあって白鬚線の工事をはじめています。同年、12月30日に東京地下鉄道(地下鉄銀座線)が浅草-上野間が開通しています。
  • 白鬚線の着工は、向島駅から分岐して全線複線化の路線工事を行い、区間の駅は向島駅ー長浦駅ー玉の井駅ー白鬚駅の4駅となり、路線の全長は1.4キロメートルありました。
  • 東武鉄道と立体で交差するために賑本通り(平和通り)と併行する軌道に堤を築き、東武鉄道と立体交差する手前に玉の井駅を設けています。東武鉄道と立体交差の鉄橋で渡った後、大正通りと併行して築堤された緩やかな坂を下った先に終点の白鬚駅を設けています。
  • 開業は1928(昭和3)年4月7日からはじまり、押上駅からの直通運転で白鬚駅まで運行していました。向島駅、白鬚駅は有人駅でしたが長浦駅、玉の井駅は無人駅でした。同年、9月に路線申請していた吾嬬町請地口ー浅草花川戸は東京市会において不許可となっています。京成電軌は、新たな都心乗り入れ路線として、青砥-日暮里間を申請し、1930年(昭和5)年7月に青砥-日暮里間を着工します。
  • 青砥ー日暮里間の工事が進む中、白鬚線は1931(昭和6)年4月1日にダイヤ改正を行い、向島ー白鬚間は往復運転となり単線1列車へと縮小しています。同年、5月25日に東武鉄道は、業平橋(スカイツリー)-浅草雷門(浅草)が開通すると、以前は京成白鬚駅側が町の賑わいの中心となっていましたが、東武鉄道玉の井(東向島)側へと移っていったと永井荷風の小説「墨東綺譚」で述べられています。
  • 京成電軌は、青砥ー日暮里間を1931(昭和6)年12月19日に開通しています。この開通により日暮里-上野公園間までの都心乗り入れ路線を進めていきます。
  • 東京市は、震災により鉄道、市電の軌道が破壊されたことから、交通ルートが自由にとれる乗合自動車(バス)、タクシーを奨励して、鉄道、市電とともに自動車が新たな交通輸送機関として加わりました。1932(昭和7)年の頃には道路、区画整理、橋梁の架設などの復興事業も終了しています。国有鉄道の山手線は環状でつながり、中央線と総武線が接続となりました。鉄道、市電、自動車による交通網が拡大していきます。
  • 京成電軌は、1932(昭和7)年7月1日に隅田乗合自動車を買収してバス事業を開始します。バスの営業所を寺島町の大正通り(いろは通り)沿いに設けて、地下鉄銀座線と連絡できる浅草雷門に停留所を置き、浅草雷門-白鬚-玉ノ井と白鬚-鐘ヶ淵ー綾瀬-関屋間の2系統のバス事業を開始しています。
  • バス営業開始の頃には、震災で破壊した吾妻橋も架け替えられて、本所区内の道路や街の区画整理も終わり防火地帯ともなる隅田公園も開園していました。水戸街道は鐘ヶ淵通りまで延伸しています。
  • 京成バスの営業は、成功を収め利用客の増加により、運行時間は朝6時30分から夜中の12時まで、運行間隔を3分から4分で運行してます。11人乗りのバスで1日平均6700人の利用があり、開業して5か月間で102万人の乗客数を上げています。市営バスも玉の井ー浅草ー谷中線の営業を開始しています。京成バスは、白髭線と併行する大正通り(大正通り・いろは通り)を経路として、主に玉の井へ行く利用客での収益を上げています。
  • 京成バスの営業開始から3か月後、復興事業も終わり交通網が整備した東京市域は、行政区を拡大していき1932(昭和7)年10月1日、東京市は35区制に替わり吾嬬町、寺島町、隅田町が合併して東京市向島区となりました。行政管轄の変更によって、京成白鬚線は東京府南葛飾郡から東京市向島区を走る鉄道路線へと変わります
  • 京成電軌は、1933(昭和8)年に念願の都心乗り入れ路線となる青砥ー上野公園(上野駅)が開通したことで、収入減となった京成白鬚線は1936(昭和11)年3月1日に廃止となりました。
  • 昭和11年3月に廃止した白髭線ですが、作家永井荷風の小説「墨東綺譚」(墨にサンズイ)は、昭和12年に朝日新聞の連載小説で発表されました。小説では昭和11年の夏草が生い茂る、玉の井停車場跡の風景が描かれています。 また、岩波書店発行の「墨東綺譚」の挿絵を担当した画家木村荘八の挿絵の中に、京成白鬚線廃線跡から見た寺島町の街並みが抒情的なタッチで描かれています。
  • 築堤の高さも不明ですが、現地に度々スケッチで訪れた木村荘八の絵は、当時の街並みを正確に写しており、白鬚線の築堤の高さが家の2階建ての屋根下ぐらいだったことがわかります。おおよそ5メートルから6メートルの築堤で東武鉄道と立体交差していたと考えられます。
  • このほか、永井荷風の随筆、日記の中にも京成白鬚線の廃線跡についての記述があります。小説のほかに、墨田区出身の漫画家滝田ゆうによる「寺島町奇譚」では、白鬚線廃線跡の土手で遊ぶ絵があり、築堤はこどもたちから山と呼ばれて格好の遊び場だったようです。
  • 廃線後、築堤はしばらく残っていましたが、いつごろに取り崩されたかは不明です。その後、太平洋戦争末期の空襲により、白鬚線周辺の寺島町は焼失し、戦後復興した頃には戦前の面影となる街は残っていません。

・きねがわスタンプラリー期間中に京成白髭線の展示をしました

きねがわスタンプラリー合同イベント

きねがわスタンプラリーで合同イベントをした事業所のリンク先

2019年度人権週間事業

人権講演会

2019年の人権講演会では、三遊亭楽生氏を講師に招き、「江戸時代から学ぶ、人と人とのつながり」をテーマに講演と落語を開催しました。

皮革工芸教室

2019年は、来年の干支であるねずみのキーホルダー作りと、木下川の歴史と皮革のDVDを上映しました。

お問い合わせ

このページは人権同和・男女共同参画課が担当しています。