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更新日:2023年2月14日
墨田区の名称由来
墨田区は、昭和22年(1947年)3月15日に、北部区域の向島区と南部区域の本所区が一つになって誕生しました。
そのときに、新しい区の名前として「墨田区」と名付けられました。それは、昔から広く人々に親しまれてきた隅田川堤の通称“墨堤”の呼び名の「墨」からと、“隅田川”の名の「田」からの2字を選んで名付けられたものです。
墨田区の立地
地理的には、東京都の東部、江東デルタ地帯の一部を占めています。西は隅田川をはさみ中央区・台東区・荒川区に、北から東は旧綾瀬川・荒川・旧中川を境として足立区・葛飾区・江戸川区に、さらに東から南は北十間川・横十間川・竪川を境として、一部は地続きで江東区に接しています。
区の形は南北にやや長く、東西約5キロメートル、南北約6キロメートルで、面積は13.77平方キロメートル(注釈)あり、東京都23区中17番目の広さになっています。
地形は、海面からの高さ最高4メートル、最低マイナス1.2メートルの平たんな低地で、地質はすべて砂と粘土まじりの沖積層です。
(注釈)国土交通省国土地理院では、面積計測方法の変更(基となる地形図を2万5千分の1地形図から電子国土基本図に変更する等)により、平成26年の墨田区の面積は13.77平方キロメートルであると公表しています。
すみだの文化
“川の手”という言葉が生まれています。“下町”という表現の是非が問われ、山の手に対する言葉として登場したものです。そんなとき、必ずクローズアップされるすみだ。その長い歴史のなかで培われてきたものをどう呼ぶかは別として、確かにすみだには、まちなみにも人々の気風にも、情緒豊かな心が息づいています。産業のまちにあって、隅田川花火や国技館の相撲を誇りとするすみだの人々。今後も墨田区に住み続けたいという方は、8割近くを占めています。
原始・古代
人類の歴史が始まった紀元前6千年ごろは、まだすみだは海の底でした。しかし、長い年月をかけて東京湾北に入江がひきはじめ、さらに秩父連峰、三国山脈、日光連山などを水源とする数条の河川が運んだ土砂が、その河口に堆積して、土地が生まれました。これが墨田区の基盤になったのです。
両国国技館出土の壺(郷土文化資料館にて展示中)は、古墳時代の完形の遺物であり、出土地周辺の居住域を推測させます。
中古・中世
9世紀ごろになると、前に述べた河川の流路もほぼ定まり、その一つが「すみだ川」と呼ばれるようになりました。平安時代の歌物語『伊勢物語』にある有名な故事のくだりで「すみだ川…」の名が記され、船の上の在原業平が、「名にしおはば いざ言問はむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと」と詠んだとされています。
そして古くから陸地化していた北部の堅い洲周辺は、武蔵国と下総国を結ぶ渡河地点に発展しましたが、12世紀に、源氏に従っていた葛西氏と江戸氏が向島地域を支配していました。その後戦乱に巻き込まれながらも、16世紀に小田原の北条氏が勢力を得るとその家臣の領地として開発が進み、農村地帯として発展しました。
近世
湿地帯の南部開発は、明暦3年(1657年)の振袖火事がきっかけでした。江戸はほぼ全滅、10万人余りの命が奪われ、幕府は牛嶋南部に焼死者を葬り、回向院を建てています。そして防火対策中心の都市復興に着手し、万治2年(1659年)には隅田川に両国橋を架け、市中に防火堤や火除地を設けました。この防火計画に従って、武家屋敷などの移転先に選ばれたのが現在の墨田区南部すなわち本所です。本所奉行を中心に、竪川・大横川・南北割下水の開さくや区画整理を進めた結果、武家屋敷を主とする市街となり、江戸の一部となりました。元禄15年(1702年)、吉良邸へ赤穂浪士が討ち入り、主君の仇を報じた事件は、一大センセーションを巻き起こしています。
一方、北部は農村地帯のまま、江戸市民の食糧供給地として歩み続けています。
また、いまでも時代を越えて全国の人々に親しまれている墨堤の桜、隅田川の花火、両国の相撲は、この時期に誕生しています。江戸三大出水をはじめ水害に苦しんだすみだですが、文化・文政期には格好の行楽地として歌舞伎や落語の舞台になりました。
近代
近代日本を形成した明治時代、すみだも新しい首都東京の一角として、新たな役割を果たすようになります。明治11年(1878年)、南部は本所区となり、北部は南葛飾郡に編入されています。当時の生産品といえば、南部では瓦、髪結具、ろうそくなどの日用品、北部では農作物でした。それが、河川に囲まれた好適な立地条件や労働事情で、しだいに工業地帯化します。特に、紡績、精密工業、石けん、製靴が盛んで、大正期には、輸出向けとして、玩具製造、ゴム工業などが起こり、発展しました。
一方、交通面では明治27年(1894年)はじめて現在の総武線が乗り入れるなど相次いで交通網が開けています。
しかし大正12年(1923年)の関東大震災で、本所区は9割余りが焼失し、焼死者4万8千人と、東京市全体の8割強に達する惨状となりました。やがて復興し、都市化が進んだ北部には、昭和7年(1932年)、向島区が成立しましたが、第2次世界大戦の戦火で再びすみだの7割が廃墟と化し、6万3千人の死傷者と30万人近い罹災者を出しています。
現在
第2次世界大戦が終わってまもない昭和22年(1947年)、本所・向島の両区が一つになり、墨田区が誕生しました。当時の人口はわずかに14万人でしたが、やがて焼け跡にも住宅や工場が建ち、産業のまちとして復興してきました。同28年(1953年)には工場数が戦前を上回り、商業面でも飛躍を遂げ、30年代の高度成長期を迎えます。急速な経済発展のなかで、工場には新技術が導入され、大型店舗やスーパーも進出、道路などの生活環境も急速に整備されました。人口は、昭和38年(1963年)の32万6千人をピークに減少傾向をたどりましたが、近年は増加に転じています。
区ではこの間、まず学校などの教育施設の充実から区民生活向上のための施設や環境改善に取りかかり、福祉施設や文化・産業施設などの増設、下水の暗きょ化や道路・護岸の整備、公園の増設、緑化の推進などを着々と行ってきました。
たび重なる災害にもめげず今日のすみだを築いてきた人々。明日の墨田区を築き、さらに飛躍させることは、私たちに与えられた課題だといえます。