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更新日:2007年3月7日
開催期間:平成15年7月5日(土曜日)から平成15年8月3日(日曜日)まで
平成15年は、勝海舟の生誕180年にあたります。また、「勝海舟の銅像を建てる会」の数年来の活動が実を結び、区役所前に海舟の銅像が建てられました。本展示は、それを記念して開催しました。
本所で生まれ青年期までをこのすみだの地で過ごし、後に明治維新という日本史の大きなターニングポイントに偉大な業績を残した勝海舟を中心に、幕末・明治期に活躍した、すみだゆかりの幕臣たちを取り上げました。
解説パネルから
「江戸無血開城」
鳥羽伏見の戦いの後、江戸に帰った徳川慶喜は、事後処理を勝海舟に委ねた。海舟は慶喜に徹底した恭順(きょうじゅん)を説き、主戦派を抑えて戦争回避で事態を収拾する方向へ、徳川内部をまとめていった。また、外国の干渉を排除すべく、英・仏両国公使へかけ合った。3月9日、山岡鉄舟が駿府において東征軍(とうせいぐん)参謀(さんぼう)・西郷隆盛と面会するが、そこで提示された東征軍による徳川処分案は、慶喜の備前藩(びぜんはん)お預け、江戸城の明渡し、徳川家の徹底した武装解除、鳥羽伏見の戦いの責任者の厳重処罰などであった。この処分案を全て受け入れた場合、これを不服とする旧幕臣が暴発する恐れがあるため、海舟は相当の譲歩を勝ち取らねばならず、そこに江戸開城交渉の困難さがあった。
海舟と西郷の会談は、3月13日、14日の両日にわたって行われたが、海舟は西郷から提示された徳川処分案に大幅な修正を加えた歎願書(たんがんしょ)を出し、譲歩をせまった。この時海舟は、いざとなれば一戦に及び、江戸の町を焼き払うことも辞さない覚悟で交渉に臨んだという。西郷は徳川方の要求について、自分の一存では決められないが、極力譲歩する方向で検討することを約束し、3月15日に予定されていた江戸総攻撃は中止された。ここに江戸は戦火から守られたのである。
しかし、徳川家の処遇はいまだ決着しておらず、また、あくまで新政府側と戦おうとする幕臣も少なくなく、依然として予断を許さない状況が続く中、4月11日江戸城は新政府軍に引き渡された。
展示資料紹介
勝海舟草稿幅 明治28年(1895年)すみだ郷土文化資料館蔵
海舟直筆の清国軍人・丁汝昌の追悼文草稿。丁汝昌は清国北洋艦隊の司令長官で、海舟と親交があったが、威海衛海戦敗北の責任をとって自殺した。この追悼文は、その直後の2月22日、23日両日の「国民新聞」に分載された。この時まだ日清両国は交戦中であり、戦争のさなかに敵将の追悼文を堂々と新聞紙上に発表したわけである。このあたりにも、日清戦争に反対する海舟の態度が表れている。
作品 | 時期 | 所蔵場所 |
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三葉葵紋入子供用裃 | 江戸時代末期 | 個人蔵 |
書額「海舟書屋」 | 弘化元年(1844年)頃 | 江戸東京博物館蔵 |
「ヅーフハルマ」写本 | 嘉永元年(1848年)/完写 | 個人蔵 |
勝海舟書幅「常だにもすまゝほしきを墨多川・・・」 | 明治時代 | 衆議院憲政記念館蔵 |
榎本武揚筆 扁額「牛嶋学校」 | 明治時代 | 墨田区教育委員会 |
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