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企画展「生誕100年すみだゆかりの文学者幸田文・佐多稲子・舟橋聖一・堀辰雄」

ページID:528956638

更新日:2007年2月20日

開催期間:平成16年6月5日(土曜日)から8月1日(日曜日)まで
 100年前の明治37年(1904年)、のちに作家となる幸田文・佐多稲子・舟橋聖一・堀辰雄の4人が誕生しました。4人は、それぞれ幼少期から青年期の一時期をすみだで過ごし、それぞれに親しんだ隅田川周辺の風景などを作品に登場させています。ひとつの地域にゆかりの作家が4人も同時に生誕100年を迎えるのということは、極めてまれなことです。
 4人の作家がすみだとどんなゆかりがあるのか、この地域のことを作品の中でどのように書いているのか、作家としてどのような業績を残したかなどを紹介しました。

主な展示資料

佐多稲子自筆原稿
・「まるい実」原稿:幸田文自筆、昭和34年(1959年)、「心」11月号
・「プロレタリア婦人作家の問題ー併せて小林多喜二に答ふー」原稿:窪川(佐多)稲子自筆、昭和9年(1934年)、「一婦人作家の随想―隠された頁」所収
・「松の翠り」原稿:舟橋聖一自筆、昭和43年(1968年)、「中央公論」3月号
・「追分にて」原稿:堀辰雄自筆、昭和9年(1934年)、「芥川龍之介全集」第1巻の月報
このほか、初版本・遺愛の品など約100点を展示。

ふるさと・隅田川、4人の作家を育んだ風景

 幸田文・佐多稲子・舟橋聖一・堀辰雄の4人が生まれた明治37年(1904年)は、日露戦争が勃発した年で、日本は帝国主義へと加速していく時期でした。
 墨田区域では、水利を生かして多くの工場が建ち、近代産業の中心地となりました。田畑や旧武家地は工場となり、労働者人口が増加しました。その一方で、江戸時代以来の名所として栄えた墨堤の桜や両国の花火・相撲は相変わらずの人気で、人々に親しまれていました。
 隅田川には、渡し舟のほかに一銭蒸気が往来して活気を呈していましたたが、ひとたび豪雨に見舞われると洪水を引き起こしました。とくに明治43年(1910年)の水害は、墨田区域をはじめ下町一帯に大きな被害を及ぼしました。
 こうした環境の中で4人は、それぞれ幼少期から青年期までの一時期を隅田川のほとりで過ごしました。この地で過ごした時間は4人にとって忘れえぬ思い出となり、記憶に残る風景を投影するように作品に登場させています。

幸田文(明治37年(1904年)から平成2年(1990年))

 明治37年9月1日、父幸田露伴の次女として、南葛飾郡寺島村(現・墨田区東向島)に生まれました。20歳まで向島に住んだ文は、小学校卒業後、厳格な父から厳しい家庭教育を受けて育ちました。これこそが、後の作家幸田文の世界を作り出したといってもいいでしょう。
 彼女の作家としてのスタートは、昭和22年(1947年)、父露伴が死去する2ヶ月前に書いた「雑記」という文章に始まります。露伴の死後に発表された「雑記」は好評を博し、随筆家幸田文の名を一躍有名にしました。向島での思い出を、活き活きと描いた「みそっかす」は、その代表です。何気ない日常のありさまを、細やかな感覚で織(お)り出す彼女の鮮明な文章は、娘として常に文豪露伴の身辺にあって自然と身についたものではないでしょうか。彼女の、旺盛な好奇心と実行力から生まれる作品は、年を経てもとどまる事はなく、女流文学賞を受賞した「闘」をはじめ、「北愁」、「木」など多数の作品を発表しました。

佐多稲子(明治37年(1904年)から平成10年(1998年))

 明治37年6月1日、長崎県長崎市に生まれました。大正4年、向島小梅町(現・墨田区向島)に住む叔父佐田秀実を頼り、一家で上京しますが、父正文に職は無く、貧窮のどん底でした。小学生だった稲子は、牛島小学校に転校後すぐに学校をやめ、和泉橋(現・千代田区)のキャラメル工場へ働きに出ますが、交通費にも満たない賃金だったそうです。その後は、池之端の料亭・向島のメリヤス工場などで働きました。こうした運命の激変が、彼女の世の中を見る目、自分と他人の姿を厳しく見る目を養い、その後の作家活動に大きく作用したと思われます。
 大正15年(1926年)、本郷動坂のカフェー紅緑に勤めていた彼女は、店で中野重治、堀辰雄、後に夫となる窪川鶴次郎ら「驢馬」の同人と知り合います。この出会いは、彼女を作家へと導き、その後の人生観を決定づけるほどの大きなものでした。昭和2年(1927年)、稲子は「驢馬」に田島いね子の名で詩を発表。翌年には、自らの体験をもとにした小説「キャラメル工場から」を発表しました。戦後初めて書いた作品「私の東京地図」は、戦地慰問などの行為を非難され、戦争責任に関し自責の念に苦しんだ彼女が、自分を見つめるために書いた作品です。この作品を皮切りに、数多くの作品を発表し、「女の宿」で女流文学賞を、「樹影」で野間文芸賞を、「時に佇つ」で川端康成賞を受賞するなど、いずれも高い評価を得ました。

舟橋聖一(明治37年(1904年)から平成10年(1998年))

 明治37年(1904)12月25日、本所区横網町(現・墨田区横網)に生まれました。近くの番場町(現・墨田区東駒形)には母の実家があり、幼い聖一は祖母に連れられて芝居見物や近所の友綱部屋へ、よく出入りしていたそうです。このことが、後に多くの戯曲を発表したり、相撲審議会委員をつとめる下地を作ったのでしょう。東京帝国大学国文科に入学した聖一は、その間「朱門」などの同人誌に作品を発表しました。堀辰雄とは帝大の同級生で、机を並べて聴講したり、浅草で遊んだそうです。卒業後は、明治大学で教鞭をとりながら、作家としての活動を展開しました。「川音」など情感豊かな作品を経て、戦時中に書かれた「悉皆屋康吉」は、時世に抗して貫かれた芸術的良心の結実とも言える作品となりました。
 戦後は、純文学と通俗文学の垣根を越える中間小説の第一人者として、独自の分野を切り拓き、毎日芸術賞を受賞した「ある女の遠景」・野間文芸賞を受賞した「好きな女の胸飾り」など、優れた作品を発表しています。
 晩年は視力を失いながらも、口述筆記により数多くの作品を発表し続けたことは、衰えることのない創作意欲と、読者への誠意の成せる業といえます。

堀辰雄(明治37年(1904年)から昭和28年(1953年))

 明治37年12月28日、麹町区平河町に父堀浜之助、母西村志氣の長男として生まれました。浜之助には妻がいました子どもがなかったため、辰雄を堀家の嫡男として届け出ました。その後、志氣は辰雄を連れて向島小梅町(現・墨田区向島)に転居。彫金師の上條松吉と結婚し、辰雄は松吉を実父と思って成長しました。松吉も辰雄を大変可愛がり、自ら迷子札を作ったり、成人後も辰雄の援助を怠ることはありませんでした。「幼年時代」には、向島で過ごした思い出が情感豊かに記されています。
 東京帝国大学文学部国文科に進学した辰雄は、室生犀星と芥川龍之介に知遇を得、この2人は彼の生涯の師となりました。また、大正15年には、中野重治や窪川鶴次郎らと同人誌「驢馬」を創刊しています。こうして、様々な出会いと文学的出発を果たす一方で、関東大震災の時には母を失い、みずからは肋膜炎を患い、生涯を通じて病気に苦しめられることとなりました。
 辰雄は、作品を構想中に彼が選択した詩人や作家の影響が色濃く現われています。西欧文学へ傾倒する中で執筆された「聖家族」「風立ちぬ」「菜穂子」といった代表作は、フランスの作家プルウストやオーストリアの詩人リルケなどに触発されたものであり、そして辰雄がこよなく愛した異国情緒溢れる軽井沢の自然や風土があったからこその産物といえるのではないでしょうか。
 晩年は、ほとんどを病床で過ごした辰雄ですが、病身を養いながら読書の日々を重ねるとともに、創作への意欲を失うことはありませんでした。

年譜で見る4人の生涯とその時代

 幸田文・佐多稲子・舟橋聖一・堀辰雄の生涯とすみだとのかかわり、また4人が生きた時代背景を年表形式で紹介しました。

すみだ文学散歩

 区内に所在する4人の文学者ゆかりの地を、地図で紹介しました。

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このページはすみだ郷土文化資料館が担当しています。