このページの先頭です
このページの本文へ移動
本文ここから

企画展「開園200年記念百花園」

ページID:435947315

更新日:2007年3月8日

開催期間:平成16年8月7日(土曜日)から9月12日(日曜日)まで
 四季折々の草花が咲き乱れ、多くの人々に親しまれてきた向島の名園「百花園」は、2004年に創設から200周年を迎えることになりました。
 百花園は、江戸の町民文化が花開いた文化文政時代、町人・佐原鞠塢によって開かれた花園です。鞠塢は、大田南畝、大窪詩仏、酒井抱一、亀田鵬斎など当時の名だたる文人達と交流があり、開園に当たり、園の造作や植樹などで彼ら文人達から多大な協力を得ることができました。それはまさに江戸後期における文人文化・町人文化の精華と言っても過言ではありません。
 しかし、明治以後は、明治43年(1910年)の隅田川大洪水による浸水、また昭和20年(1945年)の東京大空襲による全焼、という二度の壊滅的打撃を受けるという受難の時代でした。向島の地元住民は、その都度、自主的に園の復興に立ち上がり、その貴重な文化遺産の保護に勤めてきたのでした。
 資料館では、開園200年を記念し、展示を通じて江戸期の創設から現代に至る百花園の歴史と文化を振り返り、向島という地域にとり百花園がどのような意義を有してきたのか、改めて考えてみました。
 平成16年は、地元有志の方々や東京都、墨田区、NPO日本都市計画家協会などの諸団体・諸個人が協力して「向島百花園創設200周年行事実行委員会」を結成し、開園200年を記念する様々なイベントを計画しました。資料館では、歴史的な展示という側面から、これら一連の行事に色を添えていきたいと計画しました。

百花園の資料

百花園の資料

百花園の資料

百花園の開園者、佐原鞠塢

佐原鞠塢肖像「園のいしぶみ」より

佐原鞠塢肖像、「園のいしぶみ」より
 百花園を開いた佐原鞠塢は、奥州仙台の農民の出で、俗称を平八といった。明和元年(1764年)生まれという説があるが不詳。天明年間(1781年から1789年)に江戸に出てきて、中村座の芝居茶屋・和泉屋勘十郎のもとで奉公した。その後、財を蓄え、それを元手に寛政8年(1796年)頃、日本橋住吉町に骨董屋の店を開き、名を北野屋平兵衛(北平とも)と改めた。芝居茶屋での奉公、骨董商時代の幅広いつき合いがもとで、当代の文人たちとの人脈を形成し、その過程で自らも書画・和歌・漢詩などを修得した。鞠塢は、商才のある人であったらしく、文人たちを集めて古道具市をしばしば開催したが、値をあげるためのオークション的な商法が幕府の咎めを受けたという。
 しばらくの間、本所中の郷(現向島1丁目付近)にいたが、文化元年(1804年)頃に剃髪して、「鞠塢菩薩」の号を名乗った。この頃、向島にあった旗本・多賀氏の屋敷跡を購入し、ここに展示で紹介する著名な文人達より梅樹の寄付や造園に協力を仰ぎ、風雅な草庭を造ったのが百花園の起こりである。園は梅の季節だけでなく、和漢の古典の知識を生かして「春の七草」「秋の七草」や「万葉集」に見える草花を植えたため、四季を通じて草花が見られるようになり、いつしか梅屋敷・秋芳園・百花園などと呼ばれるようになった。園の経営者としても鞠塢の才能はいかんなく発揮され、園内の茶店では、隅田川焼という焼き物や「寿星梅」という梅干しなどを名物として販売。また、園内で向島の名所を描きこんだ地図を刷り人々に頒布して、来園者の誘致を図り、次第にその評判が高まっていった。天保2年(1931年)8月29日に死没。編著書に漢詩集「盛音集」、句集「墨多川集」「花袋」のほか、「秋野七草考」「春野七草考」「梅屋花品」「墨水遊覧誌」「都鳥考」などがある。

お問い合わせ

このページはすみだ郷土文化資料館が担当しています。