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企画展「隅田川七福神江戸の七福神の歴史」

ページID:255584985

更新日:2007年2月20日

開催期間:平成16年12月25日(土曜日)から平成17年1月16日(日曜日)まで
 新しい年の始まりを告げる江戸東京の風物詩・隅田川(向島)七福神めぐり。それは、江戸後期の文化・文政年間(1804年から1830年)、佐原鞠塢が開いた向島百花園に集う、大田南畝・亀田鵬斎・加藤千蔭・酒井抱一などの名だたる文人たちによって始められました。隅田川七福神めぐりは、現在、墨田区の無形文化財に登録されています。
 平成16年度の七福神展は、前年に引き続き、隅田川七福神の成立と文人の関係にスポットを当てました。特に、七福神めぐりを創始したとされる文人達のなかでも、大田南畝の役割に注目してみました。一般的にはあまり知られていない、隅田川七福神の成立と南畝の深い関係について、新たに展示した作品等を通じて、紹介しました。

隅田川七福神の資料

隅田川七福神の資料

隅田川七福神の資料

隅田川七福神の資料

再説・隅田川七福神の成立、大田南畝の役割

再説・隅田川七福神の成立、大田南畝の役割、
一般に、隅田川七福神の成立は、次のように語られるのが常である。
・・百花園に集う文人たちは、園主・佐原鞠塢が愛蔵する「福禄寿像」(展示写真)に目をつけ、ついで多聞寺の毘沙門天、長命寺の弁財天、三囲神社の恵比寿・大国の二神像、弘福寺の布袋和尚像に次々に着目し、向島に七福神を揃えることを思い立った。しかし、寿老人だけは該当する場所がなかったため、文人たちは機転をきかせ、寺島村の鎮守・白鬚明神を白い鬚を生やした老人の神に見立てて、寿老人(神)をこれに充て、めでたく七福神を向島に揃えることができた・・。
この説によれば、白鬚神社の寿老人は、文化元年(1804年)に百花園ができてから、隅田川七福神の中で最後に選ばれた神とされている。しかし、白鬚明神を寿老人(神)に見立てる考え方は、百花園ができる以前、天明4年(1784年)にすでに大田南畝によって語られている(「返々目出鯛春参」・展示資料)。つまり通説とは逆に、白鬚神社の寿老人(神)は、古くから注目されてきた七福神であったことが分かる。
一方、天明元年(1781年)に南畝が著した「かくれ里の記」をもとに、双幅に仕立てられた「隅田川七福語り」(展示資料)には、弘福寺の布袋尊が登場する。
これらの史料から、向島(隅田川)七福神は、まず天明元年(1781年)頃に弘福寺の布袋尊、同4年頃に白鬚神社の寿老人(神)が大田南畝によって選ばれ、文化元年(1804年)に百花園が成立した後、その他の5神が南畝を中心に同園に集う文人たちによって定められた、とするのが妥当であると思われる。

主な展示品

「隅田川七福語り」
文:大田南畝、画:谷文晁、喜多武清、蹄斎北馬
文政6年(1823年)頃、津和野葛飾北斎美術館蔵
「寿老人画幅」
大田南畝賛 義薫画
江戸時代後期、すみだ郷土文化資料館

「返々目出鯛春参」
大田南畝作
天明4年(1784年)刊、すみだ郷土文化資料館
「福神隅田川遊覧絵巻」
曙峯画
江戸時代後期、すみだ郷土文化資料館


七福神めぐりについては「隅田川七福神めぐり」ホームページへ

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このページはすみだ郷土文化資料館が担当しています。