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すみだ近代教育の黎明 佐善元立と時敏塾

ページID:356285077

更新日:2007年2月20日

開催期間:平成11年10月2日(土曜日)から平成11年11月14日(日曜日)まで

庶民の教育をになっていた寺子屋・私塾

 明治維新の後、政府による教育制度が充実されるまで、庶民の教育を担っていたのは寺子屋や私塾でした。私塾は、全国で数千に達したものと推定され、すみだには62軒もの私塾があったと記録にあります。私塾は、初等教育のための大きな役割を果たしました。またその一部は後に公立学校に吸収されたり、私立学校として存続したものもあります。

その資料は散逸していきました

 しかしこれら多くの私塾は、全国民に対する義務教育制度が確立していく中で廃業していき、それとともに私塾に関する史料なども散逸していきました。明治初期の公立学校の資料とともに極めて少ないものとなっています。

すみだの学校・私塾

 このように、当時の学校設立の状況を知ることが困難な中で、すみだには、明治初期に区内にあった私塾の1つ「時敏塾」や、最も早い時期に設立された公立の「牛島」、「明徳」、「柳島」など各学校の資料など、明治初期の教育を物語る資料が現存しています。
 これらのすみだにおける近代教育創成期の塾や学校の設立状況や、個人で「時敏塾」を開いた佐善元立という人物の資料を展示して、明治初期のすみだと教育との関わりを紹介しました。

期間中の講演会 終了しました

座談会:「人・町・学校」
座談会出席者:青砥昌之氏、五木田直氏、田島信行氏、日野秀夫氏、
当館専門員 鈴木敏弘
司会:当館専門員 狩野雄一
とき:平成11年11月13日(土曜日)

佐善元立(1828年から1886年)

 佐善元立は、文政11年(1828)伯耆国会見郡境村(現在の鳥取県境港市)の医師加藤洞仙の第二子として生まれました。
 通称は馬之允・新三郎・修三郎・修蔵。字は子達。諱は元立。舫山または船山と号しました。
 鳥取藩の藩校「尚徳館」などで漢学を学んだ元立は、嘉永4年(1851)、鳥取藩の儒家である佐善正蔵易直の娘安子と結婚して佐善家の養子となった後も学問にはげみ、同年12月から安政2年(1855)正月までは江戸で幕臣・河田八之助迪斎に漢学を学びました。同年2月からは、藩校「尚徳館」の教官となり、同時に家塾を開設しました。
 文久3年(1861)、鳥取藩の国事周旋活動の担い手である周旋方として京都に派遣されました。ところが、同年8月17日夜、京都本圀寺において藩の重役3人を殺害した「本圀寺事件(二十士事件)」に荷担したため、元立は事件後、石見・長州などに逃れます。
 明治維新ののち鳥取へ帰った元立は、明治2年(1869)、鳥取藩漢学寮長兼総学局事務管理、廃藩置県後鳥取県権大属戸籍掛兼学務掛、置賜県(米沢県ー山形県)権大属、変則中学校皇漢学長などを歴任しました。晩年は、鳥取県再設置陳情の草案をつくったり、旧藩主である池田家の師講として最後の鳥取藩主であった慶徳とその嗣子輝知らに仕えました。
 明治19年(1886)12月2日に没し、向島弘福寺に葬られました。

「時敏塾」の成立と位置

時敏塾は、佐善元立により明治10年(1877)4月30日付で開業願が提出されています。
 開業願提出時の学校の位置は、現在の中央区日本橋大伝馬町一丁目でした。
 また、明治のはじめ池田邸の中に開設されていたという話も伝わっています。池田家が寺島村に別邸を構えた時期は、明治5年(1872)以降で、明治7年(1874)1月より本邸として使用しています。佐善元立は、同年9月鳥取県学務掛・変則中学校皇漢学長を辞任していますので、時敏塾を寺島村の池田邸に開設したとすれば、明治7年9月以降と思われます。
 その後、明治12年(1879)12月に南葛飾郡寺島村(現在の東向島三丁目、都立墨田川高校内)から、浅草区金龍山下瓦町(現・台東区浅草七丁目)への移転届が提出されていますので、開業願提出後に寺島村に移転していたことが推測されます。そして明治13年(1880)1月、再び浅草区金龍山下瓦町から南葛飾郡寺島村(現・区立寺島図書館)に移転します。

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