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「さくら」展

ページID:105181787

更新日:2007年2月20日

開催期間:平成12年3月25日(土曜日)から平成12年5月7日(日曜日)まで

さくら展 画像

江戸時代以来、木母寺あたりから水戸徳川家下屋敷付近の隅田川堤は「墨堤」と称され、四季折々の風情を楽しむことが出来る風光明媚な場所として、人々に親しまれてきました。
とりわけ桜の咲く花見の時期には、多くの人で賑い、その様相は今日まで続いています。
 資料館では、春一番の賑わいを見せる花見の時期にあわせて、収蔵する錦絵を中心に江戸時代から続く墨堤のお花見風景を紹介しました。

主な展示資料

「さくら」展
主な展示資料
墨堤植桜の碑(拓本) 榎本武揚の篆額、浜邨蔵六(4世)の文と書
江戸自慢三十六興 向島堤ノ花并ニさくら餅 元治元年(1864)
歌川豊国三代・歌川広重二代画
江戸名所 隅田川堤の花(歌川広重) 江戸時代後期 歌川広重画
長命寺さくら餅の葉を漬けた壷 長命寺の桜餅に使用する桜葉を漬け込む壺
東京名所三十六戯撰 隅田川白ひげ辺 明治5年(1872) 昇斎一景

ほか

一本桜から並木桜へ 江戸のお花見

江戸で花見といえば、隅田堤・上野・飛鳥山・御殿山・小金井などが名所として名高いが、そのほとんどは8代将軍徳川吉宗の命によって造られたところです。
 これらの場所が全盛を極める以前は、寺社などにある一本桜を愛でつつ短冊に歌を詠むような風流閑雅が喜ばれました。
 しかし、文化文政頃(1804年から1829年)から一本桜を見ることから並木桜を見る方へと移っていきました。文政5年(1822年)に書かれた『明和誌』には、「寛政頃より手習師匠、春花盛のころ、上野・浅草・向島・王子・日ぐらし・御殿山へ弟子をつれ、子供の髪には造花をさゝせ、手拭のそろひをゑりにまかせ、遊びあるく、皆親々もつれ立行。明和安永までは見かけざる事なり」とあり、これは団体での花見が多くなってきたこと、花を見て賞観することよりも花見の際の娯楽を楽しむ、いわゆる「花より団子」の様相が高まったことによるもので、文化の大衆化のあらわれでもあります。
 人々は日中、花見衣裳や仮装をして群游し、お花見弁当と酒に舌鼓を打ちつつ、歌舞音曲を楽しみます。そして花見客をあてこんだ多くの茶店・屋台がにぎわう、その様子は今日と変わりはありません。

明治のさくら

明治になってからも墨堤の植桜は続けられました。明治7年(1874年)には、其角堂永機が1000本を植え、同13年(1880年)には水戸徳川家が自邸(現・隅田公園)前に植えたことで、桜並木は枕橋まで達することとなりました。
 花見の盛況ぶりは相変わらずで、これにレガッタや一銭蒸気、ビールにラムネといった文明開化を象徴するような諸物がにぎやかさを添えていました。

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