このページの先頭です
このページの本文へ移動
  1. 現在のページ
  2. トップページ
  3. 子育て・教育
  4. 地域教育支援事業
  5. 文化財の保護・普及
  6. 墨田区の文化財
  7. 新たに登録・指定した文化財の紹介
  8. 墨田区登録有形文化財(歴史資料)義士墓(那珂湊戦争関連資料)のご紹介
本文ここから

墨田区登録有形文化財(歴史資料)義士墓(那珂湊戦争関連資料)のご紹介

ページID:685835746

更新日:2024年3月26日

登録日

令和6年2月8日

概要

 この墓碑は回向院(墨田区両国二丁目8-10)の境内にあります。安山岩製で、総高は104.5cmを測ります。正面に丸彫で「義士墓」の3字が大きく彫り込まれています。また、向かって右面には「施主」として「平岡氏」・「都筑氏」の2つの名字が、左面には「元治元甲子歳十月」の日付が、それぞれ薬研彫で刻まれています。そして背面には榊原新左衛門、谷弥次郎、福地政次郎、富田三保之介など旧水戸藩士38名、旧水戸藩郷士4名、神職1名、百姓1名の名前が、やはり薬研彫りで刻まれています。
 背面に名前を刻まれた44名は、元治元年(1864)に勃発した那珂湊戦争において幕府軍からの勧告に従い投降した後、切腹あるいは諸藩預けの後に処刑された旧水戸藩大発勢の主要構成員に一致します。また、施主として名前を刻んだ平岡と都筑の両人は、彼らに投降を促した旧幕府軍所属の平岡四郎兵衛(歩兵頭)と都筑鐐太郎(歩兵頭並)に一致すると考えられます。
 この墓碑が建立された経緯は今のところ不明ですが、これに関しては『水戸市史』等の記述から得られる那珂湊戦争に関する知見が参考になります。
 『水戸市史』によれば、この戦争は日本開国後の水戸藩内部の分断及び数派に分かれての権力闘争と幕府内部の勢力の交代とが密接に絡んで生じました。具体的には、水戸藩においては当時、幕府に対して早期の攘夷決行を迫る尊攘激派と比較的緩やかな変革を主張した尊攘鎮派、そして弘道館の学生たちを結集させ藩実権の掌握を目指した門閥層中心の守旧派(諸生派)がそれぞれに対立していました。そして元治元年(1864)3月にはついに激派(天狗党)が筑波山中に挙兵して守旧派・幕府軍と決戦に及ぶ事態となり、一方鎮派は、こうした最中に生じた幕府内部の勢力交代を好機として江戸藩邸において主導権を握り、藩主を説得して守旧派を打倒すべく松平頼徳(宍戸藩主)を主将に立てて行動を起こしました(この鎮派の軍勢を大発勢と呼びます)。
 さて、幕末の水戸藩においてはこのような事態がほぼ同時に展開したわけですが、ここで注目されるのが、戦地において生じた守旧派打倒の一点での妥協、つまり鎮派大発勢と激派(天狗党)との合流です。大発勢は、こうして戦地において不本意ながら幕府軍から敵視されざるをえない構図に陥り、勧告に従って投降した後の処遇は厳しいものとならざるをえませんでした。
 ちなみに、戦地となった那珂湊(現茨城県ひたちなか市)において大発勢に対して投降を促すための交渉を担当したのが、平岡四郎兵衛と都筑鐐太郎の両人でした。両人は、激派(天狗党)を鎮圧するために幕府軍に合流していた鎮派に近い水戸藩士から寄せられた情報に基づき、大発勢が本来幕府に敵対する立場でないこと、故に早期に投降を促すことができると判断する立場にあったようです。つまり、平岡・都筑の両人には、本来幕府に敵対したものではない大発勢が投降後に死を賜るという意外の厳科に処されたことを受け、密かに彼らのための墓碑を建立する十分な動機があったと考えられます。
 回向院の境内に残された「義士墓」は、このように日本開国後の複雑な政局展開の過程を髣髴させるとともに、特に那珂湊戦争に関して、幕府軍の中に水戸藩鎮派大発勢の苦しい立場、悲運を理解する者がいたということを示す希少な歴史資料です。

お問い合わせ

このページは地域教育支援課が担当しています。